米騒動(こめそうどう)とは、「米の流通量の減少や価格高騰によって民衆が米を入手しづらくなることが要因となって起こる、騒ぎなどのこと」ですが、ここでは大正7年に魚津町で発生したある事件のことをご案内します。 大正7年(1918年)7月23日、北海道への米の輸送船「伊吹丸」が魚津町に寄港した際に、折からの米価高騰に苦しんでいた漁師の主婦ら数十人が米の積み出しをやめるよう要求、交渉しました。結果、米の搬出が中止されました。やがて地元紙でこの件が報道されると富山県内のあちこちで漁師の主婦らが同様の騒動を起こし、ところにより規模が百数十人~数千人に膨れ上がり、米穀商宅に押し掛け、移出阻止を求めました。これがニュースとなって全国に広まり、やがて時の内閣を総辞職に追い込む大きな事件となりました。

昔の魚津町の風景写真

米騒動の直接の原因は、大正7年(1918)7月からの米価の高騰にあります。第一次世界大戦による物価の高騰での米の需要拡大と米不足、さらに大地主や商人が買い占めや売り惜しみをしだしてさらに高騰しました。 当時の日給と米の価格を比較すると、工場勤務の日給が男性50~70銭であるのに対し、一升(約1.5kg)当たりの米価が米騒動直前の7月には33銭、8月には40銭まで値上がりしています。

当時、魚津港近くに蒸気船が来て米が積みだされると町ので米の小売価格が上がると考えられ、貧しい人たちにとって蒸気船は目のかたきになっていました。
そして7月23日の早朝、伊吹丸が入港すると主婦らが続々と海岸に集まり、米の積み出し中止を求めました。

昔の魚津町の風景写真

魚津で起こった米騒動は、役所や警察などの公的機関の記録、新聞記事からみると、一番早いと言えます。このため魚津は「米騒動発祥の地」といわれています。魚津で起こった米騒動は暴力的なものではなく、話し合いで収まったことが特徴です。
大正7年(1918年)7月23日早朝8時ごろ、米の積み出しをされている港に主婦60人程が集まり、仲仕(なかせ:荷物を運ぶ人夫)に米の積み出しをしないよう懇願しました。警官もきてその場は一旦出荷が取りやめ、解散となりました。しかしその1時間後にまた積み出しが始まったので、主婦50人程が十二銀行倉庫(米蔵)に集まり、仲仕と押し問答になりました。最終的には主婦の代表と回漕店(運送業者)の番頭との話し合いで、ついに米の出荷が中止となりました。

この7月23日の事件は7月25日付の地元紙「富山日報」と「北陸タイムス」で大きく報じられ、その後東岩瀬町、泊町、高岡市・・・と県内のあちこちで同様の騒ぎが広がりました。そして8月6日から8日にかけて滑川町で2000人の群衆が大米穀商を襲撃及び積み出し阻止を起こし、警察官と対峙しました。「越中女一揆」として東京や大阪の大新聞や各地の地方紙に米騒動が報道され、全国的な騒動へと拡散しました。

昔の魚津町の風景写真

大正7年の米騒動は1道3府32県に及び、軍隊が出動し多数の労働者や農民が死亡または負傷した。検挙者も25000人に上り、薩長閥で陸軍出身の寺内内閣は総辞職に追い込まれました。政府は騒動の取り締まりだけでなく新聞報道の禁止で事態を終息させようとしましたが、マスコミは一層反発を強め倒閣運動の論陣をはりました。これがそれまでの薩長出身内閣ではなく、初の平民出身の原内閣 誕生の原動力となりました。
また、米騒動によって内閣が総辞職となったことで、国内では民本主義思想の拡大と「大正デモクラシー」と呼ばれる護憲運動が盛り上がり、労働争議や普通選挙を推進しました。
「越中の女一揆」と呼ばれた米騒動は女性差別をなくそうとする運動にも力を与え、平塚らいてう達が青鞜社をつくり、女性の解放を訴えました。